弘法大師と大峰山
宝亀5年 - 承和2年3月21日(774年 - 835年4月22日(新暦))。大峰山を開山された、修験道開祖役行者より約100年後の空海は、仏門に入る前は、佐伯眞魚という名前であった。空海は延暦10年に律令制の官吏養成の大学に入っている。大学入学の年齢は、やはり令によって13歳から16歳と定められていた。空海の経歴は不明の点が多い。確実な史料では、上表文による少年の日から、遣唐使の留学生となる直前の東大寺における授戒まではよく分からず、平城京から長岡京に遷都されたのが、延暦3(784)年であり、この前後に空海は大学に入学している。
空海の若き当時、官僚の道を歩むべく入った大学を中退し、優婆塞となって何かつかみたい、仏教の教えの中で何かを見つけたいと、そういう気持ちにさせたのが、吉野から高野の道です。古代の道は尾根道で、稜線を歩き、必ず案内人がおり、神の山ですから許された人しか入る事は出来なかった様です。

大峰山の山頂から、海抜1700~1800メートルの山稜を南へ、ほぼ9時間から10時間で弥山(1895メートル)に達する。そこでも8世紀、つまり奈良時代中頃の土器類が出土したことを確認した。吉野から弥山までの山稜には、奈良時代中期には、宗教活動が行われていたことを考古学の調査によって確かめられています。丹生川上神社に関係する部族の山人に連れられて吉野に入り、1日で南の大天井ヶ岳あたりに行き、それから西へ2日かけて高野に入ったと考えられます。天野の丹生明神のほうへ下りて行ったのだろうと思われます。そのコースの分かれ目が、紀の川の分水嶺だと思われます。

吉野から高野の道は、今でも歩ける峰々ですが、当時も尾根道だった事は間違いない様です。そのあと、高野山へ来た時には吉野と高野を往復している可能性があるので、その時は洞川も通っているだろうと思われます。ところどころ伝説が残っています。

大峯の山々、多分、雪を少し頂いていた頃だと思われます。獣が動かない時期が一番安全です。

それから実際に金峯山の山、山上ヶ岳には確実に入っていると考えられます。ひょっとしたら弥山まで行ってい事も考えられます。そういう中で、神仏への畏敬の念が養われたと思われます。この吉野山地を修行の場とする修験は、早くとも9世紀以降に始まったと考えられています。空海の大峰山での修行時代が想像されます。

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